歌舞伎の世話物には「捨てぜりふ」というのがあって、役者が雰囲気により、とっさにその場で脚本にないセリフを言うことがあるそうです。
脚本にないせりふ、つまりアドリブのことで、舞台の空白を埋め、情緒を盛り上げるのに一役買っています。
若いころの中村錦之助氏が、彫り物をした鳶の役で舞台に出ていたときのこと、頭役の六代目菊五郎に、いきなり「おめえのは、どこで彫ったんだ」と問いかけられ、思わず「うっ…」とつまってしまいました。
あとで先輩から「そんなときは彫辰でも、彫金でも、“彫”の付く名を挙げとけばいいんだ」と教えられ、翌日は早速「彫辰だ」。すると今度は「何番彫りだい」との問い。またもや楽屋で「一番彫りは一番の彫り手によるものだから、お前さんのような若造役は三番か、四番彫りと答えておけば無難だよ」の助言。そこで次の日、「三番彫りだい」。
と、「ボカシは何本だい」ときました。当てずっぽうに「五本だい」と答えたら、「そんなのねえや」。
観客にほとんど聞こえない捨てぜりふが、若手俳優の格好の試験台になっていたのです。「くやしい思いをしながら、そのとき教わったことは、いつまでも忘れない」と若手は異口同音に言うそうです。
個性豊かで逞しい人間をつくるのは、画一的な教育よりも、アドリブを積み重ねた個別指導のほうがよさそうです。