以前、ある人から問い掛けられました。「松の木ってどんなだったっけ?描ける?」松の木といえば、小さいときからよく目にしていますし、たくさんの木々の中から「これが松だ」くらいの識別はできます。
しかし、改めて「松の木を描けるか?」と問われると、ハタと困ってしまいました。何となくイメージはあるのですが、いざ描こうとするとどうも絵にならないのです。
私はもともと絵心を母親のお腹に忘れてきたような人間ですから、絵がうまくないことは自分でも承知していましたが、それを差し引いても私は内心慌てました。目で知っているだけで、頭の中には松の木の姿を記憶していないのです。50年近く生きてきて、「自分はそんなこと知っている」と思っていたことが実はこの程度だったのかとショックを受けると同時に、これまで随分と知ったかぶりをしてきた自分に恥ずかしさを感じてしまいました。
それならば桜の花をと思い、試してみましたが、やはりダメでした。どのように木についているのかそれさえわからないのです。モヤモヤと大体の輪郭が記憶にあるだけで、肝心なところはさっぱり思い出せません。
花見に行っても花を見ず、酒を飲み、ドンチャン騒ぎをして酔っ払ったことしか覚えておらず、「花より団子」の言葉をかえって身につまされるようで、反省させられました。
それならば、造園業を営んでいる専門家はどうだろうかと思い、会員の大山氏に試してみたところ、ものの見事に紙の上に松の木が現れました。
専門家の見方は、凡人のそれとは違います。同じものを見ても、目的のあるかないかで大きな差があるのです。「見学の見」で見るのと「観察の観」で見る差です。
俗に「他人の商売と他人の女房はよく見える」といいます。この場合は、もちろん観察ではなく見学です。
いや、見学どころか見物かも知れません。もともと商売というものは、人知れぬ苦労に耐えながら懸命にやり通すもので、その表に出ない影の部分を見逃して表面だけを羨むことは、要するに何も見ていないのと同じです。
花や木を見たら外見の色や形はもちろん、目に見えない地中の根の張り具合にまで、さらに養分の状態にまで思いが届く。観察とはそういうものではないかと思います。「努力して探る」目を持ってのみ、観察の道が開けてくるのです。
観察の目は、苦労する、失敗と反省を重ねる、そして本当に自分の全知全能を傾けたものに対して開眼するものなのでしょう。人から教わった方法論だけで観察しようなどと考えても、見なければならないものを見ることは出来ません。所詮結果は知れています。
何かを見るとき、または何かに取り組むとき、自分は「見物人」にすぎないのか、「見学者」になってしまっていないか、しっかりと「観察者」になっているかを自身に問い掛けてみてください。そうすれば、今まで見えなかったものが必ず見えてきます。

カモ井加工紙株式会社
鴨井尚志