皆さんご存知の通り、今年のプロ野球は、阪神タイガースが2年振りにセ・リーグを制しました。
以前、ある雑誌のコラムで、「野球の試合をしている選手とそれを見ている観客、どちらが楽しんでいるのか?」
という記事が載っていました。選手と観客を同じ次元で比較すること自体おかしいと言われればそれまでです。
しかし、野球場という同じ場所で、同じ時間を共有するもの同士ですから、何か比較できそうな気がします。
わざわざ球場まで出向き、入場料を払って試合に没頭する観客の姿は、選手と同レベルの感覚を味わっているように見えます。両者の違いといえば、プレーをしているかいないかだけではないかと思えます。
観客の多くは、さも自分が監督になったかのように、選手の起用方法や戦術を自分で勝手に考えます。それが声援とか野次になるわけです。そして観客は結果に対してなんら責任を問われることはなく、言いたい放題です。
一方選手は、いくら自分の好きなことを職業にしているとはいえ、 一球一打の結果によって評価されるわけですから、楽しむどころではないかもしれません。
こう考えると、選手と観客のどちらが楽しんでいるかという問いに関しては、「観客」に分があるように見えます。
しかし、「どちらが面白いか?」という問いの場合、答えはどうなるでしょうか?
観客は、自分が試合をしているわけではありませんから、自力で勝利の感動や敗北の悔しさを選べません。
総て他力です。
反面、選手は自分がプレーした結果そのものを問われますから、その責任がすべて自分にあると同時に、やり直しも自分の努力で可能となります。
実際に何か「行為」をすることは、「見ている」ことより数倍緊張感があります。恐らく両者の決定的な違いは、挑戦・努力・達成・充実の有無だと思います。こうなると面白さの点では、観客よりも選手に軍配が上がります。
我々の日常の仕事を見つめてみてください。毎日行動を起こして何かに挑戦し、その結果挫折を味わうこともありますが、新たな挑戦を試み、努力の結果として達成感や充実感を得ることも度々あります。それはまた、自分の感動だけでなくお客様をはじめ、周囲の人たちが喜ぶことに繋がります。
人はえてして、自分の仕事がヒマになったり、面白くなくなったりしたとき、評論家や批評家になってしまうものです。それは、誰のせいでもありません。ヒマを作るのも面白さをなくすのも自分次第だからです。何事にも自ら参加し、行動することで面白さは自分で創造することができます。

ある音楽家の言葉があります。「偉大な作曲家たちは、意欲が湧いたから作曲に取り組んだわけではない。
必死に取り組んでいたから意欲が湧いたのだ」