自分は「運」がないと嘆く者よ、人生に見放され、哀れな日々を過ごしていることであろう。
しかしながら、お前の嘆きは、「私は自分が恵まれることしか考えず、人に恵むことなど考えたことのない、身勝手な人間です」としか私の耳には聞こえない。
お前の頭の中に、「モラル」「道徳」と言う文字はあるか。私の知る限り、人の道を守らずして、己の運強く繁栄している者を見たことがない。
お前は、運とは空から自分に降って来るものと信じ、自分は恵まれるべき人間であると思い上がっているであろう。お前は自分が得ることばかりを考え、人に施しをしたことがあるか。お前の身勝手で、周りの人がどれだけ振り回されているかを考えたことがあるか。ないであろう。
愚かなる者よ、よく聞くがよい。お前は、運に嫌われているのではない。人に嫌われているのだ。
人に見放されたお前に、運などがめぐり来ることはありえない。人生に忌み嫌われ、哀れな一生を過ごすがよい。それがいやならば、己が与えてもらおうとする、その奪うような卑しい心を改め、人を助け、思いやりのある人間となってみよ。人としての道を歩み、モラルを身に付けた大人となってみよ。人としての道とはいかなる道か、などという愚問に、私は答えるつもりはない。
感じるな。自分自身の頭で考え、そして行動せよ。「運」なき愚か者に捧ぐ。これは、イギリスのある会社の社長でウィスラーという人が残した「愚か者への教訓」の一節です。「運」がないと嘆く。これは裏を返せば、自分は何か恵まれるべきであり、何か運良く恵まれたい、努力しないでおいしい目にあいたいと言っているのと同じです。上記の教訓は、愚か者のその卑しい心を見抜き、何か与えてもらいたいと日々願っている子供のような言動を一喝する、誠に厳しい教訓です。
何かを与えてもらう心より、与える心を持つ、すなわち大人の言動がとれる人物になれとウィスラー卿は説きます。「運」がないなどと嘆いているレベルでは、とても大人の心ではないことをいとも簡単に見透かしています。さて、教訓の最後に「感じるな。自分自身の頭で考え、そして行動せよ」とありますが、これは一体いかなることでしょうか?
私も最初理解しにくかったのですが、私なりの解釈では、ウィスラー氏は、愚かなりし者の心を鋭く読んでいたのではないかと思います。運なき愚か者に「感じるのだ」と言った場合、すべてを自分の都合よく解釈し、「言い訳」を創作してしまうことをウィスラー卿は知っていたのです。愚か者が考えずに感じていたら、ますます努力を怠り、さらなる悪循環を引き起こしてしまいます。
この教訓でいう「感じる」ことは、自立心であり「考える」ことができる大人の行動であって、己の経験、知識、判断力、そして道徳心や倫理観といったものが養われた上でのものでなければならないと教えてくれています。
カモ井加工紙株式会社
鴨井尚志